22卒 本選考ES
総合職
22卒 | 非公開 | 非公開
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Q.
専攻・ゼミ・卒論など、学業で力を入れたことについてお答えください。(300字以内)
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A.
私が学業で力を入れたことは、ゼミでの研究である。私は西洋美術史ゼミに所属し「第二次世界大戦期の○○とメディアとして扱われた○○の関係」について研究を行い、それを卒業論文の題材とした。この題材は、駅に貼られていたポスターを見たことをきっかけに○○展覧会に足を運んだ際、○○が長い間柔和なテイストの作品を描いていたのにも関わらず、ある特定の時期においては一際異彩を放つ重々しい作品を描いていたということを発見し、そこにどうのような背景が隠されているのかについて関心を持ち、着目したことがきっかけとなっている。私はこのゼミでの研究を通じて、多面的に物事を見ることの重要性を学んだ。 続きを読む
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Q.
趣味・特技・スポーツなどについてお答えください。(300字以内)
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A.
趣味は○○の大会やプロ選手の配信を見ること。特技は年齢や地位に関係なく多様な人と円滑なコミュニケーションがとれること。この特技を表したものとして、六次の隔たりと言われる五人を介せば世界中の誰とでも繋がれるという理論を基にどこまで人との関わりを増やせるか試した経験がある。結果は○○さんへ辿り着くことができ、人との関わりを増やせたのと同時に六次の隔たりの正当性を証明した。これは私の好奇心で行ったものであり、媒介者には何もメリットはない。しかし沢山の方が面白がってくださりこの結果に繋がった。この経験を通じて自身の熱意や人柄で多くの人を巻き込み目標を達成することに喜びを感じた。 続きを読む
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Q.
資格・語学(英語検定、TOEIC、TOEFL等)、取得している資格をお答えください。(全半角100文字以内)
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A.
秘書技能試験準一級、TOEIC660点、普通自動車第一種運転免許(AT限定) 続きを読む
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Q.
志望部門、職種について
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A.
第一志望:営業 第二志望:プロモーション 第三志望:マーケティング 続きを読む
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Q.
変化の激しい広告業界で働いていく中で、あなたはYOMIKOで、どのようなことを成し遂げたいと思いますか。できる限り具体的にお答えくださいを(300〜500字以内)
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A.
【世の中により良い変化をもたらし続け、バイネームで仕事ができる広告パーソンになる】私は「ビジネスのプロとして内と外両方に影響を与えていきたい」という軸で就職活動を行なっており、広告会社ならそれを実現できると考えているため、貴社を志望している。そしてこの軸を発展させた、「世の中により良い変化をもたらし続け、バイネームで仕事ができる広告パーソンになる」ということを最終的に成し遂げたい。人に影響を与えるということは私の行動の根源であり、小学時代の経験に起因している。また、内と外両方に影響を与えるということは○○の経験がきっかけとなっている。貴社で内と外をクライアントと世の中に置き換え、両方に良い影響を与えていきたい。そして、この目標を達成するには早い速度で成長する必要があ流と考えており、博報堂と経営統合をしていることで、博報堂のリソースを使いながらも裁量を持って活躍することができるといことはこの目標を叶えていく上でとてもあっていると考えている。 続きを読む
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Q.
幼少期から現在までの「自分史」を書いてください。 (小学校卒業まで:10%、中学時代:20%、高校時代:30%、大学入学~現在:40%)(全半角2000文字以内)
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A.
【小学校卒業まで】 (8歳)○○が病気を抱えていたことから家族に迷惑をかけないよう努める。家事を母から頼まれることも多く、頼りにされていることが嬉しく頑張って取り組んでいた。 (11歳)○○が中学受験に挑戦し、頭の良い中学校に合格したことで親戚中がその子一色になる。それを見てどうにか親族の目を自分に向けたいという想いから自分も中学受験を決意。私の通う小学校では中学受験をする人がほぼおらず、皆と違うことをしているということで教員や生徒から白い目で見られることが多々ありつらい思いをした。 【中学時代】 (中1)異性と気兼ねなく話す自分の行動が認められず仲良しグループに居づらくなる。以降内気な性格となる。 (中1-中3)勉強や趣味に注力するようになり学内のテストでは上位をキープしていたが、万年2位であり悔しい日々を送った。 (中3)学校の学習プログラムで1ヶ月間カナダに留学をした。初めて日本以外の文化に触れ、その多様性を受け入れる文化に衝撃を受けた。過去に思い悩んでいた事がいかに小さなことだったかに気がついた。 【高校時代】 (高1-高2)軽音部に入り、発表の場が少ないという課題に取り組んだ。情報を集めると他の高校では複数の高校と合同でライブを行っていることを発見した。しかし決まった高校で行うなど何年もかけて作られた伝統があり自分たちが受け入れられるか不安であった。そのため、まず自分が切り込み隊長として乗り込むことで関係値を築き態勢を整えた。その後様々な高校と合同でライブを行い年2回であった発表の場を年30回に増やすことができた。さらにコミュニティを広げたことで来場者100人規模のライブを企画できるほどになった。 (高2冬-高3)ある日ふと思い立ち友達が学校帰りに塾に行くところを同行した。その結果、今の自分が受験に関してとても遅れをとっていることを知り、この日から猛勉強を開始。夏休みには塾の友達5、6人に声をかけ「廊下で勉強の会」を設立し始発で塾に向かい、開館までの寸暇も惜しんで勉強時間へと当てた。その甲斐もあり、高2の冬の時点では偏差値が30台だったにもかかわらず第一志望の慶應大学に合格できた。 【大学時代】 (大1)先輩の誘いで○○のバイトを開始。しかしお客さんの態度が悪く、○○という話が出るほどであった。一方で上司からはお客さんが離れるという理由で注意することを止められていたため、こうした上司とお客さんの間で板挟みになりながらも最善の策を取れるよう考え解決へと導いた。 (大2) 大学生活が学内のコミュニティだけで終結してしまうことを危惧し、幅広い層の人と関係を築きたいと思うようになる。そこで「六次の隔たり」と言われる五人を介せば世界中の誰とでも繋がることができるという理論を基に、どこまで人との関わりを増やせるのか試した。結果は○○さんにまで辿り着いた。 (大2-4)○○に応募し3年間行った。当初は○○に貢献できておらず、私はこの現状を変えるため○○に貢献する手立てを考えた。貢献できていない理由は○○ということだと推測し、対抗するより独自路線を確立する方が良いと考え、私は○○を探し分析した。その中で○○は大きく4つに分類できることを発見し、○○が抜けていることを見つけ出した。そして属性や傾向を踏まえ、○○となった。その結果○○を記録した。 (大4)学生団体で○○100人と共に企業に企画を持ち込みPR活動を行った。その中で○○を盛り上げたいという自身の想いと掛け合わせた企画を考え、大会視聴者の8割が男性である一方で、コアなファンは8割が女性であるというギャップを見つけ出し、見落とされがちであった女性にリーチできていないという課題の解決を提案した。また、当初の依頼はSNSへの写真投稿だけであったが、世の女性の心を動かす前にメンバーの心を動かす必要があると考え、○○○○女子会という大会観戦イベントも企画した。 続きを読む