22卒 本選考ES
総合職
22卒 | 一橋大学 | 男性
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Q.
自分史 以下より、入力の手引きと入力サンプルを必ずご確認の上、ご提出ください。 入力の手引き サンプル1/サンプル2/サンプル3
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A.
(4歳から6歳)カナダで現地の学校に通った。初めは英語が喋れず友達作りにも苦労したが鬼ごっこやサッカーを通じて徐々に仲良くなれたため、スポーツの偉大さを実感した。 (小1)学校開始の二か月後に帰国したため、スポーツを通じて学校の人と馴染もうと考え、サッカークラブに入った。同時期に公文に通い始めた。 (小5)より高みを目指し、志願して塾に通い始めた。冬に二度の入院を伴う全治半年の怪我をし、引退を決意した。この時抱いた葛藤から、中学からは後悔しない部活生活を送ると決意した。 中学時代 2010年 ○○中学入学(中高一貫) (中1)自由な雰囲気に惹かれ、○○中学校に入学した。中一の最初のテストで学年100位を取って危機感を抱き、勉強法の本を何冊も買って改良を重ねた結果、学年10位前後をキープした。その後も自分を追い込み、いい成績を狙い続けた。 部活は、サッカーを選んだ。怪我をした際の心境を二度と繰り返さないように真剣に取り組んだ。しかし、怪我によるブランクで身体がついて来ず、苦しい思いをした。 (中3)中学最後の試合はベンチ外になり、高校で取り返そうと闘志を燃やした。 中高一貫校であったため、受験勉強をする必要がなく、競技力向上に専念できた。高校生になるまでに課題であった体力不足を克服するために、「自宅の前の長い坂道を何秒で登れるかタイムで図ること」、「月二回ほど週末の練習の際に片道8キロの道のりを学校まで走って行くこと」を自分に課し、限界まで追い込んで体力をつけていった。高校生になった後も途切れ途切れであるが、この習慣を継続した 高校時代 2013年 ○○高校入学 (高1)日頃の取り組みが認められ、一年生の頃に、セカンドチームの副主将、その後主将に任命された。しかし結果を出さなければならないという責任から、先輩に対しても厳しく当たり、チームが空中分解しかけた。チームを纏めることの難しさを痛感するとともに大いに反省すべき出来事となった。 (高2)中学校の時からの体力向上計画によって、走力が自分の武器になり、徐々に実力が認められていった。また校内のマラソン大会では、高校歴代20位に入った。課外活動では、文化祭の出店のリーダーを任された。クラスの友達と協力しながら、企画から当日の運営まで責任者としての責務を果たした。またこの頃、勉学では理系志望であったが、数学と理科が苦手すぎて仕方なく文系を選択した。 (高3)大会一か月前に、全治一年半の○○の怪我を負った。今までの努力が無駄になり、支えてくれた両親に最後に活躍する姿を見せられない申し訳なさを感じた。前回の怪我の時の感情を抱きたくなかったので、チームに貢献できる方法を考えた結果、マネジャーに転向した。ビブスの洗濯といった雑務、元選手だからこその同じ目線に立った助言などを行った。引退時皆に感謝され、人のために動き、人に感謝されることにやりがいを感じた。 部活引退後、入院生活で将来のことも考え始めた。叔父が丸の内の一等地で働いてるの見て刺激を受けたことから、東京の大学に行き、多くの人と交わり、刺激を受け、自分を高めたいと考えた。現役時代は志望校に合格できず、浪人をした。 浪人中に苦手な数学を完全に克服し、自信がついた。 大学以降 2017年 ○○大学○○学部入学 (大1)二度の怪我の経験から、大学では遊ぼうと考えてた。しかしサークルに行っても物足りなさを感じた。四年間の大学生活これでいいのかという思いを抱いた。怪我で終わったもどかしさ、不完全燃焼感を思い出した。その時現在の体育会の新歓を受けて、控えめなイメージを持っていた○○にこんな熱量の高い集団がいるのかと衝撃を受けた。その中でも、1自分の可能性に挑戦したい 2大学日本一を目指したい 3人の良さの観点から○○部に入部した。アルバイトは、高校の時気軽に質問できる人がおらず、苦労した経験から、そのような人の助けになりたいと、○○を始めた。しかし、ブースで質問や相談に来た人に対処する形式のため、一回しか来てくれずその後がわからないなど貢献が分かりづらかった。そのため、次に主体的に長期で関われる家庭教師になった。家庭教師と並行して○○の販売員を始めた。動機は、サプリメントに対する知識を得て部活動に活かしたいということ、接客を学びたかったことである。最初は商品が全く売れず、苦労したが、上司の接客方法を見て勉強したり、本を買って勉強することで徐々に売れるようになっていった。 (大3)主将からセカンドチームのリーダーを任された。高校の時の失敗は繰り返さないよう、厳しい言葉をなくし、後輩を委縮させないよう心掛けた。また個人としてもレベルアップのために増量に本気で取り組んだ。高校時代はあだ名はマッチ棒で、大学入学時は○○センチ66キロしかなかった。しかし「朝五時に起きて生卵五つとオートミールを飲む」など一日5000キロカロリーを目標に食事を摂取した結果、体重が80キロになり、競技でも結果が出た。 (大4)自分たちの代になり、自身の経験からも勝つためにはチーム全体のフィジカルを向上させることが不可欠だと考え、様々な取り組みを行った。コロナによる練習中止もあり、一時は停滞したが、リーグ戦が始まる頃には平均3キロの増量を達成した。 個人としても体重が87キロまで増え、競技力向上を実感した。 続きを読む