16卒 本選考ES
営業職(CBD)
16卒 | 早稲田大学 | 男性
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Q.
CBDを志望する理由。
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A.
自らがもたらす影響を最も実感できる職種であるためです。私は“周囲を喜ばせたい”という思いが自分自身の最大の原動力になっています。営業職は、自らが考え、行動したことで生まれた影響や喜びを最も近い距離で感じることのできる職種だと考えます。こうした環境の下でならば誰よりも努力し続けることができると自負しており、いずれはリーダーとして海外での営業を任せられる人材になりたいと強く望んでいます。 続きを読む
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Q.
志望企業を志望度順に3つ教えてください。
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A.
1. P&G 2. 日清食品 3. リクルートライフスタイル 続きを読む
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Q.
所属ゼミでの研究について教えてください。
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A.
アメリカ合衆国におけるヒスパニック系移民に関する研究 続きを読む
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Q.
資格・学業成績・課外活動について教えてください。
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A.
TOEIC935点を保持しています。また、東日本大震災の復興支援のため、2012年に学生団体を設立し、30名ほどのメンバーを率いました。主な活動場所は気仙沼で、瓦礫や土のうの運搬、イベント運営などを行いました。 続きを読む
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Q.
アルバイト経験(そのアルバイトを選んだ背景、果たした役割、もたらした結果を盛り込む)を教えてください。
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A.
八百屋(3年間)、家庭教師(2年間) 店先での声出しや、お客様への対応、商品管理を中心に行っています。時には美容室の前やショッピングモールの中での出張販売も行っています。また、このアルバイトと並行して行っていた家庭教師では、ニ人の中学生に対し、英語、国語、数学、社会を教えた経験があります。 続きを読む
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Q.
あなたが、解決したい課題や問題について、重要な関連性のある情報(データや事実など)を見出し、その課題や問題の根源をつきとめ、解決策を提案した結果、望ましい成果を挙げた経験について述べてください。
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A.
私には、自ら提案した解決策によって、アルバイト先である八百屋の売り上げを倍増させたという経験があります。この店は、約4年前に開店し、産地を限定した少し価格が高めの商品を扱っています。私が開店と同時にアルバイトとして働き始めて以来、地域での知名度も日に日に上がり、それと共に来客数も増えてきたのですが、雨の日になると急激に売り上げが落ちてしまうという問題を抱えていました。通常では一日に約8万円から10万円ほどの売り上げがあるのですが、雨の日になると一気に3万円ほどにまで落ち込んでしまう状態でした。天候によってここまで売り上げが下がってしまうという状況を目の前にして悔しさと自らの無力さを覚えた私は、問題解決のヒントになればと、ハガキ郵送のために作られたお客様名簿を調べました。そうするとある規則性を見つけることができました。それは、常連のお客様は、店舗から徒歩で15分以上かかる場所に住まれている方が多いというものでした。ここで私は、以下のように予測を立てました。“雨が降ると、自転車に乗ることが難しくなり、店から遠くに住む常連客の方々は、傘を差し、歩いて買い物に行くことが億劫になっているはずだ。”そこで、雨の日限定で、電話注文を受け付け、お客様のご自宅までお届けするというサービスを、自らのアイディアとして提案、実現しました。この案は、大きく功を奏し、お客様自身で持ち帰る必要がないため、普段店舗で買われる時よりも多く購入して頂くことができるという相乗効果も生まれました。この結果、雨が降った日でも、従来の2倍である6万円を超えるような売り上げを継続的に出すことに成功しました。 続きを読む
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Q.
あなたがグループの中でリーダーシップをとって、方向性を示し、グループメンバーから協力を得て優れた結果を出した経験について説明してください。
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A.
リーダーシップを発揮し、優れた結果を出した例として、宮城県気仙沼での、震災復興イベントの成功という経験が挙げられます。東日本大震災の発生から約一年後の2012年2月、私は友人と共に、東北地方の復興を支援する学生団体を立ち上げました。震災以降、自分たちの手で支援を行い、より目に見えやすい形でその結果を感じることで、より継続的な支援へのモチベーションに繋がるのではないかと考えていました。そこで、SNSの活用などを通して仲間を集め、団体を結成するに至りました。当初は、津波の被害を受けた地域でのガレキ処理や土のうの運搬、また、海藻類の養殖の手伝いなどを行いました。ある日、活動の中で知り合った方の中に、気仙沼市役所の方がいらっしゃり、復興屋台村というイベントでの運営を手伝ってみないかと依頼を受けました。このイベントは、気仙沼の復興のために、漁師や飲食店がそれぞれに屋台を出し、お客さんを集めようというものでした。当日、私たちは、屋台やステージ設営の他に、マグロ料理を出す屋台での手伝いを任されました。イベントでは、総勢20名のメンバーを率いたのですが、それぞれの個人の体力や得意な仕事を見極めた上で声出しやレジなどの役割をそれぞれに与える必要がありました。メンバー1人1人からしっかりと話を聞き、適材適所を意識することで、チームとして効率よく仕事をこなすことができるように努力しました。ノルマとして与えられていた金額の1.5倍を売り上げることを目標に一丸となって取り組んだ結果、15万円以上の売り上げを出すことができ、これは、22店あった屋台の中で二位に入る売り上げでした。 続きを読む
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Q.
あなたが、これまでに著しい結果(学校、コミュニティー、仕事などを含む)を出したときのことを教えてください。
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A.
これまでに著しい結果を残すことができた例として、家庭教師としての成功経験が挙げられます。私は、大学時代に家庭教師を行っていたことがあり、二人の中学三年生の生徒を教えた経験があります。初めて担当した生徒は、成績も良く、第一志望の高校へと進学させることができました。この経験から、自分としてはある程度の自信を持った状態で二人目の生徒を担当することになりました。しかし、いざ指導を始めると、一人目の教え子とはまるで異なり、成績も悪く、あまり言うことを聞いてくれない生徒であることが分かりました。彼は、両親が共働きの家庭に育ち、親子でのコミュニケーションがあまり多くない中で育ってきた生徒でした。私自身の背景が彼の経験と重なる部分があり、私の力で絶対に彼を成長させたいと強く思うようになりました。その第一歩として、先生と生徒としてでは無く、より対等な立場で信頼関係を築こうと努力しました。授業のある日はいつも一緒に食事をし、授業の無い日でも連絡を取り合い、勉強以外の話を多くするように心がけました。そうすると二か月が経つ頃には、互いに信頼が生まれ始め、以前は避けていた毎回の課題を必ずするようになり、勉学に対する姿勢も変化していきました。勉強面においては、彼に合わせたオリジナルのテスト問題を作成したり、スカイプを使って指導をしたりといった工夫を続けました。受験間近の時期には、ほぼ毎日のように彼とファミリーレストランに行き、指導をしていました。結果として、彼が合格した学校は、第三志望の学校だったのですが、一年前の彼の成績から比べ、偏差値は20以上も伸びており、その成長は著しいものでした。 続きを読む
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Q.
あなたの周りで起こった変化によって、いつもより柔軟になる事が必要になった時のことを述べてください。その時の状況を説明し、あなたがどのように対処したのか教えてください。
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A.
私が、いつもより柔軟になることが必要となった経験は、留学中のルームメイトとの暮らしでした。一年間のアメリカ留学をしていた間、中国人二人、そしてイスラエル人一人とルームシェアをして暮らしていました。ルームメイトの三人とも、自分と同じ留学生であり、慣れない土地での暮らしに力を合わせ生活していました。しかし、留学生活が始まり彼らとも打ち解け始めると、次第に、お互いの文化的な違いが現れるようになりました。例えば、食器の洗い方や掃除の仕方、食事中のマナーなど、当初は気にならなかったようなことが、目につくようになり始めました。特に、中国人のルームメイトに関して、普段の彼らは、本当に心優しく、素晴らしい友人なのですが、食器洗いや部屋の掃除をしたがらないという問題があり、私ともう一人のルームメイトが、彼らの代わりにそうした仕事をしていました。私たち二人は、関係が悪くなることを防ぐために、あえて彼らに不満を言うことはしなかったのですが、徐々に、私たち二人対中国人の二人という構図が部屋の中に出来つつあるように感じていました。しかし、この状況のまま1年間を過ごすことは、ルームメイト全員にとって苦痛になるであろうと考えた私は、不満を言うのではなく、共通のルールを作ろうと提案することにしました。食事の後は30分以内に必ず自分で食器を洗うというルールや、部屋の掃除は週に一回、交代して皆で行うといったものなどを決め、部屋に大きく張り紙をして、それらを共通の認識としました。その効果はてきめんで、今まで抱えていた問題は次第に無くなり、最終的に私たちは、四人で旅行に行くほどの良好な関係性を築くことができました。 続きを読む
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Q.
あなたが、異なる背景、経歴又は考えを持っている人々と、建設的な関係を築き上げ、よりよい結果を得た例をあげてください。
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A.
異なる背景を持つ人々と建設的な関係を築くことができた例として、アメリカにある介護施設での経験が挙げられます。私は、大学時代に一年間、アメリカへの交換留学を経験しました。留学が始まり三か月ほどが経ったころ、日系アメリカ人の高齢者の方々が入居されている介護施設でのボランティアを紹介されました。そこでは、職員も全て現地の方たちで、日系人向け施設ではありますが、コミュニケーションは全て英語で行われました。当初、英語が母国語で無い私に対し、長いコミュニケーションが必要となるような仕事は任せてくれませんでした。それでもめげずに多いときには週に四回施設に通い、事務所の清掃や書類整理、荷物の運搬などの仕事を数カ月間必死に続けました。そうしていく内に、次第に職員からの信用を得ることができ、トイレの介助や食事の配膳、体操の指導などの仕事をさせてもらえるようになりました。そうした中、施設の中での娯楽として、入居者の方々と一緒に日本の曲を歌うという企画に参加しました。この活動に参加していた全員が笑顔になっていたという点に大きな魅力を感じ、この活動の運営だけでなく企画・構成にも携わりたいということをマネージャーに直談判しました。この希望は実際に叶えられ、私が企画に参加した回では、プロジェクターを使ったり、時には職員と一緒に楽器を演奏したりして、最大限の工夫を凝らしました。そして、私一人で20人以上の入居者の方々の前に立って活動の進行も任せられるほどの信頼を得ることができました。このことは、国籍も経歴も全く異なる方たちと建設的な関係を築き上げられたことによって成し遂げられた成果だと思います。 続きを読む