18卒 本選考ES
総合職
18卒 | 慶應義塾大学 | 男性
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Q.
学生時代に特に力をいれたことの中で、あなたの強みが最も活かされたエピソードを、具体的にご記入ください。
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A.
「周囲を巻き込む力」を活かした、東日本大震災後の陸前高田での、復興支援コミュニティ広場の創設だ。私は震災直後から3か月間、避難所近くの仮設風呂に泊まり込みで働きながら、地域密着型の支援活動を行った。一方で、訪れるボランティアが被災者との交流を通じてやりがいを感じ、再訪して頂くための拠点作りに取り組んだ。まず、地元の方のお宅を一軒ずつ訪問する「営業活動」を通じて、土地と建設技術をお借りし、さらに知り合った遠方の支援者の方々には、定期的に連絡して復興状況を共有する中で、98万円の支援金と資材を寄付して頂いた。結果、避難所の側に支援者用の宿泊施設を創設、区画内に地元の方の喫茶店などを誘致し、活気ある広場を実現した。また、ボランティアが地域の小学生と、浸水した田んぼに塩害に強い向日葵を植えるイベントを開催し、夏の再訪と土壌改善を図った。広場は地元の方に引き継がれ、現在も多くの方にご利用頂いている。 続きを読む
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Q.
あなたの人生で最大の困難や挫折は何ですか?また、それをどのように乗り越えたのか、具体的なエピソードをご記入ください。
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A.
【独りよがりの仕事から、仲間で達成する仕事へ】私は大学入学からテレビ制作会社でアルバイトをし、バラエティ番組のロケ地案・ゲスト案・企画案を、雑誌・インターネットなどの調査を元に資料にして提出する、リサーチ業務を担当した。そして粘り強い情報集めと、番組テーマの高い理解度、見易さを重視した資料のクオリティが評価され、3年目に某国民的特番の担当班のリーダーに抜擢された。当初強い責任感を感じた私は、重要な仕事を自分で担当し、他の経験の浅いメンバーには、補佐的な役割を求めた。しかし仕事を抱え込み過ぎて、時間不足で十分な資料が提出できず、先輩社員からは厳しい叱責を受けた。そして資料を見返した時、メンバーの粗削りながらも新鮮な切り口のアイディアに気付き、自分がいかに「独りよがり」な仕事をしていたかを痛感した。私はチーム全体のボトムアップを図りながら、協力して業務を遂行する方針に切り替えた。まず社員の方に掛け合い、他のメンバーも会議に出席させ、制作現場の一員としての主体性を促した。また、過去の提出資料と、それが放送に繋がった際の映像をDVDにして渡し、業務のやりがいを伝えた。さらに社員の方には萎縮しがちであったメンバーに対して、同じ目線に立つことを意識し、気軽に意見を言い合える環境作りを心掛けた。結果、その年は4つの企画案が採用され、後日チームで放送を観た時には、大きな感動を共有することが出来た。 続きを読む
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Q.
あなたが当社でチャレンジしたい事、実現したい夢など当社を志望する理由を自由にご記入ください。
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A.
一つ目の夢は、地域に密着した街づくりによって「東京の多様性」を支えることだ。私は、大学3年次に休学して世界一周旅行をし、35か国で100以上の街を訪れ、個性豊かな文化を肌で感じた。一方で根無し草の旅人であった私は、どの街へ行っても当事者になれない悔しさを感じ、生まれ育った東京で何かを成し遂げたいと強く思った。私は東京の最大の魅力は、江戸時代から続く歴史の奥深さと、一駅過ぎるだけで雰囲気が変わる多面性であると考える。東京で青春を過ごした私だからこそ、今度はディベロッパーという立場で、街が持つ文化・歴史、そして訪れる方のライフスタイルに合わせた柔軟な「街づくり」を通じて、東京の魅力を最大化していきたい。 二つ目の夢は、ハード・ソフトの両面を通じて、長期的に地域に寄り添う街づくりをすることだ。東日本大震災後の復興支援コミュニティ広場の創設では、ボランティアが陸前高田を「第二の故郷」と感じ、継続的に関わり、支援して頂くことが目標だった。そしてそれを実現したのは、被災者の方の喜ぶ顔やボランティア同士の横の繋がり、関わった子供たちの成長していく姿だった。私は、街づくりは「ハコ」を作った時点では終わらず、「サービス」や「体験」を通じて人々の交流を促し、長期的に地域の方に寄り添っていくものと考える。開発のみならず、人々の生活に密着した多様なコンテンツを提供する御社で、その夢を実現していきたい。 続きを読む